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橋本努講義「経済思想」小レポート2004 no.2.

毎回講義の最後に提出を求めている小レポートの紹介です。

 

 

 

マルクス『ゴータ綱領批判』(5月25日授業分)

17020111  経営学科3年  今  和章

 これまでの授業の内容からすると、共産主義は主に地主・貴族階級が政治を担い、 労働者階級は利益を享受できないという時代背景から生まれてきたものだということ がわかった。分業により利益を得るのが常に支配階級であるという経済体制のもとで は労働者階級から批判がでるのは当然のことであるから、当時の時代背景からすれ ば、共産主義の考え方が生まれてくるのは当然のことと思われる。では、今日においては共産主義をどのように考えることができるだろうか。率直な意見は、共産主義は 授業を受ける前に感じていた印象よりはるかに実践の価値があり、今日的にも意味があると考えられる。もちろん共産主義の全ての考え方を取り入れるのにはやはり抵抗を感じるが、まず、今日までの日本では形式的平等により偏差値でエリートが決まり、そのエリート達が政治家となるというのが一般的である。そのため音楽や文化などのセンスの乏しい人が政治家となり、その結果日本には文化的資源が乏しく、観光が少なく税収が少ないという批判がある。もちろん一般人より知能的に優れたエリート達に、よりよい政治を行ってもらうことを期待する意味では今日的な体制も批判できるものではないが、昨今の政治不信を考えると、体制をガラッと変えて、今までにないセンスを持った様々な層の人達に政治化になってもらうのも試してみる価値があるように思われる。現在の内閣総理大臣も政治化一家の3代目である。政治家の子供は政治家といった図式は断ち切ったほうがよいように思われる。この意味で共産主義は取り入れるべき考え方であると考えられる。
 アイゼナハ綱領、エルフルト綱領は当時の時代背景を表しており、今日においては達成されている点がいくつもあるように思われる。その意味では、人間は本来自由や平等を求めるものであり、あらゆる支配・差別をなくす方向に、現在も動いているように思われる。しかし、例えば無料教育や無料訴訟・無料弁護といったものまで行うと、少なくとも現在の日本では問題が起こると考える。無料弁護というものは今日の日本においても刑事事件の場合には成されていることではあるが、全ての弁護を無料にすると、弁護士の給料は国から支払われることになる。無料教育においても同様である。その財源は当然国民からの税収で賄われるものであるため、その税収の確保といった問題が浮上するのである。累進課税により高額所得者から多く税収を集めることには賛成であるが、累進課税は行き過ぎてはいけないと思う。富の再分配を行うために累進課税を増長するのは人々の勤労意欲を削ぐことになる危険性がある。人間は本来平等を求めるものではあるが、社会経済の発展のためには、勤労の見返りとして表われる富の蓄積は認められるべきであり、すなわち貧富の差はある程度は容認すべきであり、この意味においては共産主義の考え方は取り入れるべきではないと考える。

 共産主義の考え方は賞賛すべき点と、実行に移すには問題点が多い点があるように思われる。政治的にも経済的にも行き詰まっている今日の日本では、失敗するかもしれないが、実践できることは試してみる価値があると思う。

 

 

マックス・ウェーバー『宗教社会学論選』(5月28日授業分)

 呪術から宗教へ、宗教から近代化へという流れの中で、特に宗教から近代化への過程で何が起こったのかが今回の授業のポイントだった。まず宗教というのは日常生活の全般的合理化ということであった。身近な宗教信仰者を見てみると、確かに何をすべきかを明確に持っていて、毎日生き生きしているように感じられる。しかし日常生活が全般的に合理化しているかというと、あまりそのようには感じられず、受験前の受験生のほうがよっぽど日常生活を合理化しているように感じられる。しかし受験という特別な環境に置かれている受験生や時間に追われる生活をしているために強制的に日常生活の合理化を求められている人達を除けば、確かに合理化しているといえるかもしれない。資本主義の中にいると「持続的かつ合理的な資本主義的経営」を目にしているので日常生活を合理化している人を見てもあまり何も感じないようになっているのかもしれない。授業の中で一番面白く感じたのは、神義論である。幸福の神義論は何故自分が救われているのか、何故自分は幸福なのかについて正当化しようとするものである。これについては授業でもあまり触れられず、賛成を得られるものではないのかもしれないが、幸福の神義論にも賛成できると自分は考えている。確かに「こんなに幸せでいいのだろうか」という問いを偶然により解決する人もいるだろうが、人間というのは帰属理論によると、成功の原因は自分に帰属させ、失敗の原因は環境に帰属させる生き物であると考えられる。もちろんそうではない人もいるだろうが、多くの人はこのように考えるだろう。つまり人間はある出来事に関して何かに原因を帰属させようとする生き物であり、幸福は自分に、苦難は自分以外に帰属させるのである。このように考えると、幸福の原因を自分に帰属させる幸福の神義論、苦難の原因を自分以外の何かに帰属させる苦難の神義論はともに納得のいくものであるように感じられる。

 宗教は死に意味を与えるものである、という話があり、死に意味がないということは生にも意味がないという考え方があることを紹介されたが、自分はまだ無宗教ではあるが、生と死に関する明確な考え方は持っているつもりである。自分の考え方では、死に意味を与えることによって生にも意味を与えるというアプローチではなく、直接生に意味を与える考え方である。自分は、誰かたった一人だけにでも必要とされているならば人は生きる意味があると考えている。逆を言えば、自分は誰にも必要とされなくなったなら死んでもよいと考えている。自分はあるかないかもわからない死後の世界や来世のために今を生きるくらいなら、今自分を必要としてくれている人達のために生きるほうがよいと考えている。よく死を見つめることによって生の意味がわかってくるというが、死を見つめるというのは死期の迫った人間でないとなかなかできないことである。自分も一度死について真剣に考え、出した答えがこれである。宗教でも自分ででも、真剣に生と死についてみんなが考えれば、よりよい世の中になることは間違いないであろう。

 

 

ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(6月1日授業分)

 ヨーロッパは宗教改革から資本主義へと発達したという。宗教改革は、教会の支配を排除したのではなく、別の支配に変えた。すなわち、家庭生活と公的生活の全体にわたる厳しく厄介な「規律」を要求した。この規律化を受け入れたのは中産者身分であり、彼らが資本主義の精神への発達を担った。中産階級者は、カトリシズム信仰者のような政治的、社会的地位はなく、その結果として営利生活の方向に向かった。また、子供の頃の、カトリシズムを模倣した親のしつけの反動として資本主義的企業家が生まれた。このように規律化を受け入れた結果、中産階級の生活は向上した。このようなプロテスタンティズムの倫理から資本家の精神が生まれたという流れは理解できたのだが、生活を合理化し、「天職」という考え方により自分を規律し、快楽主義・世俗化・金銭欲を否定したのに何故資本主義が発達したのかという疑問が浮かんでくる。この疑問に対する解答として授業では「伝統主義」という考え方に対する「天職」という考え方が紹介された。伝統主義では報酬が多いことよりも、労働の少ないことの方を選ぶ。つまりできるだけ多く労働すれば一日にどれだけの報酬が得られるか、ではなくて、これまでと同じ報酬を得て伝統的な必要を充たすためには、どれだけの労働をしなければならないかと発想する。この考え方は資本主義の考え方とは逆であるように私には思われる。これに対し天職という考え方は、あたかも労働が絶対的な自己目的であるかのように励むという心情である。天職という考え方は多分に宗教的な性格を有しているように感じられる。なぜなら天職という考え方の基礎として、労働は神の定めたもうた生活の自己目的であり、時間を浪費することは、その失われた時間の分だけ、神の栄光ために役立つ労働の機会が奪い取られたこととなるという考え方があるからである。今日において、労働が絶対的な自己目的と感じられるのは、労働と呼ぶかどうかは別として自分の好きなことを職業とできた特別な人達、例えばスポーツ選手や漫画家といった人達だけだろう。多くの人達は、今自分が就いている職業を天職だと考えることはできないだろう。宗教改革当時の天職という考え方は良いと思うが、今日における天職の考え方は好きなことを職業として生活している人達を正当化するだけの考え方であるように思われる。とはいえこの天職という考え方を、宗教的にではなくて、今日においても持つことができたならば、警察や企業による不正も、入社してからの離職率の増加という現象もなくなるのではないかと思われる。仕事にやりがいを感じないという社会人の言葉をよく耳にするが、転職という考え方に基づき、今自分が就いている職業を絶対的な自己目的と考えることができれば、仕事のやりがいも見つけられるように感じられる。自分が社会人になった時も、仕事がつまらないといってすぐに再就職を考えたりするのではなく、まずはその状況の中でやりがいを見つける努力をしようと、天職という考え方から考えた。
 授業の中でもう一つ関心があったのは、受験システムの中で我々もプロテスタンティズムを似た状況を経験してきたが、その中で我々は精神的な救済を求めたかということである。救済を、行為により自己確信を獲得し厳しい労働に耐えることにより不安を消すことにあると定義するならば、私は救済を求めたと言うことができると思う。受験のために一生懸命勉強したのは、それにより少しでも不安を消そうと思ったからであり、模試をたくさん受けたのは、必ず合格するだろうという自己確信が欲しかったからである。このような生活を合理化するというプロテスタンティズムの倫理は受験だけではなく、部活動などにも当てはまると思われる。そしてその中でもやはり精神的救済を求めると言えるだろう。なぜなら厳しい練習に耐えるのは、それにより自己確信を得、不安を消すために他ならないと思えるからである。生活の合理化というのは今日においても頻繁に行われることであり、その中で人々はどういった心情になるのかを学ぶことができて、これからの生活に参考になることが多々あるように思われる。

 

ジャン・ボードリヤール『消費社会の神話と構造』(6月22日授業分)

 我々が他人との違いを表す記号の例として、音楽の消費が挙げられる。私は10年も前からMr.Children(以下ミスチル)のファンである。私の友人であればこの事実を知らない者はいない。だから私が単なるミーハー根性でミスチルファンだと言っているのではないということは周知なのだが、初対面の相手に「俺はミスチルファンだ」と言うと「素人が」と思われることがあるようである。人気のあるバンドの曲を聴いているということは、吉野家で「つゆだく」を注文すると「素人が」と思われるのと一緒である。音楽は趣味として広く浸透しているぶん、人は他人との違いを見せつけようとするため、人とは違った音楽を聴きたがる。音楽に詳しければ詳しいほど、特にバンドを組んでいる人達にとっては、メジャーなアーティストを聴くことは「素人」っぽさをアピールしているのと同じであるようだ。「通」であるためにはマイナーな洋楽やインディーズを聴く必要があるらしい。そのような人達は、音楽を、それ自体が「良い」という理由で聴くのではない。他人との違いを表す記号として、音楽を消費するのである。人がある音楽を消費したり、あるいは特定の音楽の好き嫌いを表明することは、自分と他者とを区別することの記号でもある。人は他者と比較し、優越的な差を求める。マイナーな音楽を聴いたり、批評し、絶賛したりすることは、「自分は人とは違う」という記号でもある。たまたまマイナーな音楽が好きで、結果的に「自分は人とは違う」ということをアピールしている場合もあるだろう。しかし逆に「自分は人とは違う」ことを証明するために、マイナーな音楽を聴くことも多いのである。ミスチルは、メジャーなバンドであるため、「他人とは違う」とアピールしにくい。それでも「通」ぶりたいために、ミスチルファンの多くは好きな曲を聴かれると、大ヒットした有名な曲を答えるのではなく、ファンじゃないとわからないようなマイナーな曲(シングルのカップリングやアルバムの中の曲)を答えるのである。ミスチルで最もヒットしたのは「tomorrow never knows」なのだが、これを好きだと公言するファンは少ない。「ミスチルは好きだけどミーハーな大衆と一緒にしてほしくない」という心理の表れでもある。他者との差異を求めるために、ファンはメジャーな曲を好きだとは言わないのである。と、偉そうに分析してみたが、これはまさしく自分に当てはまるものである。確かに私も「好きな曲は?」と聞かれると、大ヒットしたメジャーな曲は答えず、マイナーな曲を答えてしまう。もちろんそのマイナーな曲が好きであるのは事実なのだが(むしろミスチルの曲で好きじゃない曲など、ただの一つもないのだが)どうしてもメジャーな曲を答える気にはならない。しかしこれはミスチルファンに限ったことではないだろう。こうした心理は他のバンドのファンにもよく見受けられるはずである。なんの恥ずかしさも感じずに、自分の好きなものを好きと言えればよいのだが、どうしても他人との違いを表そうとしてしまうのである。

 ちなみに私が好きなアーティストとしては、他にJUDY AND MARYと川本真琴がいる (ジュディマリは解散し、川本真琴はメジャーな活動をしていない)のだが、この二組のアーティストの好きな曲を聴かれても、メジャーな曲は答えないだろう。

 

 

2004/6/1 『経済思想レポート』

経営学科 3年 17020145 渡部 保志

 二十一世紀になって世界を見回してみると、かつて理想として描かれた国家単位での共産主義は失敗に終わったという見方が多くを占める世の中になったと言える。一方で資本主義は、グローバリゼーションや大規模な通貨危機などの大きな問題を抱えながらも継続している。そして、これに変わる新しくより理想的な体制は、見つかるどころかあるかどうかもわからない。この状況において資本主義の成立について考えることは、大いに意味があるだろう。

 さて、ウェーバーは、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で、何故資本主義が生まれたのかについて興味深い理論を展開している。ウェーバーによると、資本主義の精神は、宗教改革に起源を持つという。すなわち、禁欲的プロテスタンティズムのうちのカルヴァニズムによって、神に選ばれているという確信を得るための自己確信と厳しい労働が必要とされるようになった。そしてこの倫理は、ピューリタンに受け入れられ、後にはその宗教的熱狂が覚め職業道徳へと変化し、功利主義的現世主義に代わっていった。

 以上の議論について、私の思うところを以下に述べる。まず、この資本主義の精神の原点についての仮説に特に異論はない。しかしそれは、イギリス(ヨーロッパ)において資本主義的精神がいかに容認され、繁栄していったのかということについてこの仮説に異論はないという意味である。当然日本を初めとした諸国において必ずしもプロテスタンティズムが隆盛を誇った事実もなければ、ウェーバーもそれを主張するものではないからである。

 では次に、日本という資本主義国において資本主義の繁栄の過程でなにがあったのかについて考えてみる。まず日本では、プロテスタンティズムもカルヴァニズムもなかったことは明らかである。これに関して、日本では、ウェーバーが官僚を中心によく読まれたためにその精神が理解され受け入れられたという説明がある。また、議論があるが江戸時代にすでに日本の財閥の中には、家訓として資本主義の精神と非常に近い倫理があり、それが日本の資本主義を作ったとする説もある。この二つの理由の内、前者について特に詳しく考えてみると、これが意味するところは、日本人は、当然すでに宗教的意味を失っている内容の中から、確信を持って物事に取り組むことの合理性を抽出することができたということである。つまり日本にとっての資本主義の繁栄は、当時の日本が欧米に追いつこうと取り入れた合理性の一部に起因するということである。

 最後に、現代においての禁欲的労働と確信がどこから来るのかについて考えてみたい。まず、自己確信については、神の存在が全く信じられていない場合でもそれが求められる理由は、より合理的であるということで説明できる。そして、その必要性の根源であった神による選択、すなわち神の存在がない時、それを得られるかどうかという不安はどこから来るのかと言えば、それは、不確実性である。これは、神のいた時と実際同値である。神によって選ばれることも、成功するかどうかということも全て不確実のもとに置かれてしまった状況では、最も合理的な対処は、確信であるということに過ぎない。また、一方で、確信を得るための労働は、結局その根拠を不確実性に帰すことになるだろう。そしてこれもまた、かつての神の時代と同値と考えられる。ここまで考えて私は次の疑問を強く感じた。

「神の時代、果たしてこの絶対的神の決定への確率的挑戦は、冒涜にはあたらなかったのだろうか?」

 

2004/06/18 『経済思想レポート』

経営学科 3年 17020145 渡部 保志

 世の中が大衆消費社会と呼ばれるようになって久しく、私もその社会の申子と言っても差し支えのない世代だろう。また、日本に限らず、多くの先進諸国において消費が飽和の臨界を迎えている。そして今こそ、いつ・誰が・何を・どこで・如何に消費するかということが問題として語られることに大きな意味があるだろう。

 以下には、まず自分の現在の立場としての大学生が、現状としてどのような消費=生活を送っているのか、そしてそれは望ましいものと言えるのか、そうではないのかということについて考えてみたい。次に、ヴェブレンの思想を基に私の生活がその理論とどう関係しているか考えてみたい。

まず一般的な学生は、どういった消費を行っているのか身近な人間を例に考えてみると、大きく分類して二つの類型が考えられる。一つは、自分の消費に必要な金額をアルバイトによって稼ごうとする類型である。もう一つは、必要な金額の内の全て、または、そのほとんどを奨学金や両親(保護者)からの借り入れに頼っているものである。

これらの類型に対し、北海道大学に限らずとも日本の多くの大学において、学生がアルバイトから収入を得て、自分の消費を満たすというケースが非常に多く見受けられるというのは誰の目にも明らかだろう。しかもこういったアルバイトによる消費を行うものの大半は、特に家計が苦しいといった事情を抱えている場合は少ない。それはつまり、両親などからの援助を自ら拒絶している場合のことである。

これに対して、私は後者の類型に属する。ほとんど全ての消費において活躍しているのは、日本学生支援機構(旧日本育英会)の奨学金である。その他例外的に両親から、実家に帰った時などにいくらかもらうこともある。従って、現在アルバイトをすることは全くない。

そして私は、この後者の類型こそが学生にとって望ましい消費を作るものと考える。その理由は、まず、学生のアルバイトの報酬に関して、明らかに安すぎると思うからである。人によって価値観に差はあったとしても、平均的な人間の一生において、大学生という時代の一時間を数百円から売るというのは明らかに大損である。すなわち仕事をしていれば消費する暇がないことも多く、また大学生の頃に感じていた消費の魅力の大半は別なものに置き換わることなしに消失してしまうものでもある。そして、消費する暇がないということに関連してもいるが、実際多くの場合、年々収入が増えた結果、収入の内消費せずに余る部分が当然出てくる。よって人生の中でも相当消費の効用が高い時期であり、後になってこの時期の消費分を稼ぐ余裕があるのだから、大学生のうちに様々な消費を、借り入れによって決済することが望ましいといえるだろう。

 次にヴェブレンの理論について、私の生活との関わりを通してその現代的意義を考えてみたい。ヴェブレンの有閑階級の理論によると、所有権の根底には、競争心(emulation)がある。すなわち、所有権には、「生存に必要な」という実質的根拠を持たずに開始され発展したという経緯がある。またヴェブレンは、有閑階級とそうではない階級の間の対比に関して、下の階級のものは、一つ上の階級へ上がりたいという競争心を持つという。

以上を踏まえて私の消費を見直してみると、その多くがよく当てはまっていると言える。例えば、友人の誰かが新しいゲーム機を買ったということがあれば、すぐにそれに追いつこうという気持ちになり、結局そうしたということなどがあった。そしてこの例は、自分だけではなく、多くの同様の立場におかれた経験を持つ人々が体験しているだろうことが容易に想像できる。

 また、私は現在大学生としてある程度有閑階級的な生活を送ることが可能になってはいるものの、自分の両親は毎日ほとんど全ての時間を労働に費やしている。その姿をみているとなおさら今以上の有閑階級への憧れと、低位の階級に没落することへの恐れを抱く。そして、私の両親が自分を犠牲にしながら、私に有閑を与えることがまさに競争心の一つの現れと言うことができるだろう。

 

 

思想と実践におけるマルクスの姿(5/25より)

経営学科 3年 17020155 菊地哲美

 今まで3回にわたってマルクスについて勉強してきたが、今回の資料であった「ゴータ綱領批判」によって、マルクスの印象が大分変わった部分があり、同時にマルクスという革命家の持つキャラクターが曖昧になってしまったようにも感じる。順序としては「経済学・哲学草稿」(以下「経・哲草稿」)・「ドイツ・イデオロギー」・「ゴータ綱領評注(批判)」といった順番で書かれているようだが、その思想はどんどん具体的になっていく反面、随分と柔らかいものになってきているように思う。特に「経・哲草稿」と今回の批判には大きな落差を感じずにはいられない。年齢を重ねたせいであるのか、現実を直視したことで何か自分の理想の実現に対して思うところがあったのか、それとももともと理念は理念であって、実践に移す際にはもっとマイルドになるものだという意識の下で行動していたのか。疑問の残るところはあるが、マルクスの思想をもとに共産主義について考えてみる。

 理念を学習している間は、マルクスの語る共産主義には賛同できない部分が多かった。自分が市場社会に生まれついたことももちろん要因の一つではあるが、何より現実味に欠けているという印象が強かったからである。「オーストリア学派の経済学」においてもいくつか批判があり、私もそれに納得していた。そして授業を受ける中で、マルクスの考え方は乱暴過ぎではないだろうか、と思う部分も多かった。「類的存在」の概念や「女性(男性)共有」などはその典型である。しかし、前述の通り、今回の「ゴータ綱領批判」でその印象は完全にひっくり返ることとなった。

この批判の中では、とりあえずは形式的平等によっていわゆる支配階級を壊してから最終的には実質的平等へと移行することをかかげている。そして当時マルクス主義が民主主義を推し進め、実現に導いたことを考えると、実践的な意味でのマルクス主義にはあまり批判は浮かばない。むしろ、現在、私たちにとっては当然と思えてしまうような労働者の視点に立った制度などをその当時推奨したパイオニア的な思想は何よりも評価したいと思う。

ただ、マルクスがそもそもこのような考えを抱いた原因はあくまで当時の被支配階級の労働事情であったのだろうと思う。マルクス主義の主張が多く受け入れられ、成功して言ったのは、彼の思想が当時自分たちの状況の改善を求めた労働者たちのニーズに合っていたからではないだろうか。階級を覆したり、新しいことを始めたりするのは非常に困難なことである。だからこそ、このときのマルクスの思想は充分に評価に値するものであろうと感じる。しかし、それが常に普遍の理想であり続けるという保証はない。政策や思想は、少なからずそれが考え出された時代の事情や特性が反映されるものであろう。時代は変わっていく。時代が変わっていけば、その時に必要なし送や条件も代わっていくはずである。今の社会が民主主義に基づいている基礎の部分に、マルクスが少しでもかかわっているというのであれば、ある意味ではマルクス主義は現代にも深く根ざしていることになる。しかし、そうして時間をかけて労働者たちの労働環境が整えられることが少しずつ常識になり始めた場合、人々や政府のとるべき行動は、次の段階を見据えるべきではないだろうか。当時マルクス主義が多くの労働者たちに支持されたからといって、現代もそのままの思想がずっと通用するというわけではないように思う。そういうわけで、新たな視点に立った当時のマルクスの考えは評価するが、今、自分が共産主義を推奨するかに関して考えた時、私ははじめに述べた「非現実的」な部分に目が行くため、共産主義を支持することには疑問を感じる。

 

「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」から(6/1より)

経営学科 3年 17020155 菊地哲美

 宗教改革ときくと、腐敗していたカトリック教会に対してプロテスタントが立ち向かった、というあまりにも単純な構図が頭に浮かびがちである。実際、私もそうであった。特に、俗にいう「最近の日本人」である私は信仰に対する意識が薄く、宗教と社会のつながりというものが理解しにくい部分がある。そもそも資本主義と宗教につながりがあったこと自体に驚いているほどである。そのため、プロテスタンティズムの考え方を研究し、そこから資本主義が発展していった流れをまとめた今回のウェーバーの説明は、現在資本主義と呼ばれる社会に住む私にとって非常に新しくて面白いものであった。

 私たちは、受験期にある意味でのカルヴァニズムを経験したといわれる。確かにそうかもしれない。その頃、恐らく受験生たちは「合格」を目指して情熱を傾け、人生上最高レベルの時間の合理化と禁欲のもとに生活していただろう。しかし、実際に受験生たちの心に隠れている動機や精神は、カルヴァニズムとは相反するものではないだろうか。少なくとも私の場合はそうであった。受験の最終目的は勿論志望校に合格することであるが、その目標を立てた理由は、将来的なものであれ、学問的なものであれ、自分の満足のためである。そして、合格に至るまでの間自分を支えるものは、合格後の「解放」であり、決して自らを規制することに意義を感じているわけではない。合格するまでの間は、その規律から解放される瞬間をむしろ夢見ていたように思う。だからこそ、規律化されている最中は、ウェーバーのいう精神性を失った「鉄の檻」のように感じるのであろう。

天職をやり続けることで救われている確信を得ようとするカルヴァニズムの行為主義は、やはり一部受験生たちの心理に当てはまる部分があるかもしれない。「救い」であれ「合格」であれ、自分がどれほど最終目標に近づいているのかは明確には見えない。だからこそ「やる」のであり、それは同時に「やらなければ(やっていなければ)不安」であるという人間の心理に基づいている。しかし、最終的な目的意識が違うのであろう。カルヴァニズムにとっての「行為」は救われているという確信を得るための方法であるため、持続的なものである。しかし、受験生たちは基本的にその規律的行動の終わりを望んで活動している。そういう意味では、私が受験生であった時期はウェーバーのいう(宗教的な)精神性を欠いた末人の姿であったとも言えるだろう。

では、私は今「無」のものとして、幸福でないといえるのか。これは、私がもともと信仰という精神の少ない現代の日本に生まれてしまった以上、「そんなことはない。」といわざるを得ない。プロテスタンティズムは、労働者の勤勉さや規律化、合理化に正当性を持たせるはたらきをする。このように宗教は、その信仰や解釈によってあらゆる人間行動を正当化する道具となりうる。私の目から見た宗教とはそういうものである。これは信仰を持たない考え方を「発展したもの」ととらえているというのではない。宗教的倫理が抜け落ちたといわれる世界でも、人々は自分の行動や行為を正当化するための思想は持ち合わせている。それは精神性の欠如なのであろうか。ウェーバーの研究を理解する上で常に問題になるのは、この「精神性」という言葉である。自分の中の精神性など気にしたこともないが、持ち合わせているかと問われれば答えに困る。おそらく意識して生活している人自体ほとんどいないだろう。たとえ宗教的なものではなくても、精神性を意識することが大切だというのであれば、確かに現代の社会は非常に不幸なのかもしれない。

 

マルクーゼ『エロス的文明』〜自由空間の抑圧〜(6/11より)

 経営学科 317020155 菊地哲美

 大学という久しぶりの自由の空間に立って、私たちはどれだけその自由を楽しむこと出来ているのだろうか。そう改めて問われれば、自分たちが普段いかに自由ゆえの不安に苛まれながら過ごしているか、ということを認識してしまう。受験から社会に出るまでの束の間の自由空間であることが問題なのか。もちろんそれもあるが、それ以上に単純に放任されることに対する絶対的な不安が存在しているように思う。自分が抑圧なくして自身を戒められない人間であるということを自覚しているからである。

私の出身高校は、そもそも拘束自体存在するのかと疑うほど、非常にラフな校風の学校であった。しかし、逆に中学生のような乱れはほとんど見られなかった。生徒の視点から判断しているためかもしれないが、少なくとも私の目にはそう映った。勝手に自分なりの常識をつくって自己を規制していく。そして、それが意外にもモラルから逸脱したものにはなっていないのである。年を経ると、ある程度の自由を与えてしまう方が、自我の強い人間には良いのかもしれない。しかし、そこで私は逆に自分の抑制力のなさを思い知ることとなった。「受験」という抑圧事項がなければ、自分は恐らく何をすべきかを完全に見失っていたことだろう。受験戦争はある意味巨大なストレスを作り出す苦しみの要因ではあったが、同時に短期的に自分を戒めるひとつの目標でもあった。だからこそ、大学に入ってから、私自身はひどく自己決定能力に乏しく、自由を恐れる傾向にあることがよくわかった。そのようなタイプの人間にとっては、「抑圧」は常に必要になってくるようだ。情けないながら、私は家父長制の受動者の立場を今になっても貫いているようである。

偉大なる指導者さまが考えてくださったことに全面的に従う生活は「楽」なものである。実際にやらされることは非常にハードで大変なことなのであるが、それ以上に高次の部分で決定をせずに済む分、実はとても楽なのである。「何もしていない」空虚な時間に襲われることもなく、不安も少ない。大変なのに楽、という面白くもないパラドックスがそこには存在している。私のような人間にとって、途中から現れる過少抑圧、俗にいう「ゆとり教育」などはかなりの逆効果である。自由な空間に投げ出されたり、抑圧されないことによって逆に身動きが取れなくなったりする。いわば、キャッチアップの目標を失ってしどろもどろしている産業のようなものである。それは、自由による抑圧とでもいおうか。抑圧がないことから来る不安に縛られ、抑圧や権威を求める心理が今以上にはたらくことだろうと予想される。そうして、不安を解消するために労働衝動が沸き起こってしまうのである。

では、なぜ私がこれほどまでに自由に弱く、権威に縋ることを求めてしまうのか。その要因は、おかしなことだが、やはり抑圧されていたからであると思う。私の世代はそれほどではないのかもしれないが、小さな頃から自分を縛る「抑圧」が多く存在していたように感じている。その抑圧を乗り越えるための方法は、抑圧を抑圧と感じないこと、要するに慣れてしまうことであった。自分の置かれた状況に、「なぜ」という疑問を持たず、それを当然として受け入れてしまえばその時点で「抑圧」は「抑圧」ではなくなる。抑圧の存在を認識させる境界線を奪い取ってしまえば良いのである。しかし、そこには必ず「思考力」の低下が伴う。私の場合は、結局それが自己決定能力や発想力を失う結果を導いた。

余談だが、誤解を受けそうなのでここで一つ述べておく。私が今ここで書いていることは、あくまで自分の性格とその要因を自分なりに探ってみただけのことであって、決してそれがこの抑圧社会のせいである、などという責任転嫁をしているわけではない。抑圧に対する対処は人それぞれであり、責任はこの方法を取り、更にその後、環境が変化しても尚そこから抜け出せずにいる自分にあることは重々承知している。単純に、自分がそういった道を歩もうとしたきっかけが何であったのか。それを考えているだけであるということを重ねて述べておきたい。

 さて、私の場合は抑圧への順応が自由への不安を更に大きくしてしまったわけだが、そう考えるとエロス的文明が必ずしも野蛮であるとはいえないだろう。むしろ、自由に対する不安ばかりが巨大化した抑圧の文化が、「創造性」を失いつつあるのは明らかである。校則という規律から解放された高校生は野蛮と化したか。実際はそうなってはいなかった。最低限の勉強はいわれなくともする。自分に必要だからする。だからそれほど厳しい規律も強制も必要ない。全員がそうであったとはいわないが、それが私の出身高校を支えた考え方であった。頻繁ではなかったが、乱れる傾向が強くなると、自由と自堕落は違う、と生徒同士で批判しあうことさえあった。彼らは自堕落な人間が増えることによって、再び自分たちの自由が奪われることを最も嫌った。そこには、自由といえども、余計な規律を増やしてしまうような行為を禁ずる、「暗黙のルール」が存在していたように思う。そのルールが、自由が暴走することを何とか押しとどめ、社会を上手く回転させていた。更に、そこから生まれる「活気」は非常に強いものであったと認識している。

 このように、文化の成熟というレベルで語るならば、「生」に溢れたリビドー的な社会の方が「豊かさ」を持つかもしれないし、社会の回転も不可能ではないかもしれない。しかし、残念ながら私は、それがそのまま経済活動にまで結びつくようには思えない。というのは、経済の発展段階には、現実原則がやはり必要であると思うからである。勿論、マルクーゼのいうように、「生」に溢れた感覚がこれからは必要になってくるかもしれない。しかし、それらは経済の発展段階によって経過的に現れてくるものであって、始めからそのようなエロス的な社会が上手く回転するとは思えない。彼のいう文化や社会は、そこに抑圧によって生じた、高い生産性や経済性を持つ社会が成立しているからこそ出てくるものではないだろうか。このように、エロス的社会は、その前段階として、抑圧的社会を内包しているように思えるのは、やはり私が日本人だからなのであろうか。とはいえ、今の日本社会が自由を受け入れることで活性化することは難しいように思う。実際、今フリーターが問題となっているが、それ以前に求職活動さえもしていない「ニート」と呼ばれる存在の増加も問題視され始めている。抑圧的な状況から自由な状況へ放り出せば、このように刹那的な快楽に身をまかせた、遊ぶだけの若者たちが増える場合もあるだろう。私の中では、抑圧は自由を成立させるために、必ず一度は通る道であるように思えるのだが、こう考えると抑圧からの脱却というのは難しいものなのかもしれない。

 最後に、関係のない話ではあるが、講義中に佐世保の小学生殺人事件のことが思い浮かんだので述べておく。私は、この事件の加害女児のみならず、自分を含めた小学校高学年という年頃の子どもに「退行欲」の現れのようなものを感じる。ちょうどあの時期は、毎日顔を合わせる友人たちにわざわざ家で手紙を書いてきて渡したり、トイレに行く時は必ず友人を連れて行ったり、将来の夢を数人で計画的に同じものに設定したりと、今思えば不思議なことをよくやっていたように思う。そこには必ず、「他人が自分と同じ思考を持ってくれないときの疎外感」が付きまとっていた。完全に自己中心的な子どもから、周囲を見回すことを要求され始める過渡期であったことが関係しているのか、何故か他人と違うことをひどく恐れた。正確には、「他人が違うこと」に疎外感を覚えた。区別と差別の境界線が明確ではないように、個性の差を拒絶と混同してしまうことがよくあったのである。そのため、自分と違うものに対しては、自分の優位を保とうとする心理がはたらくことがよくあった。しかし、今になって考えれば、それ自体が非常に自己中心的で退行的な考え方である。現実が視野の拡大を迫る中で、自分が、もしくは自分と親が宇宙の全てであった時代へ回帰しようとする。そんな心理ではないだろうか。その心理自体は、誰もが一度は通る道なのかもしれない。しかし、それが他人を害する行動へと繋がっていくのは、現実の抑圧が与える影響であるのか。それとも過少抑圧によって理性が育たないことが原因なのか。今回の講義の中で、ふとそんなことが浮かんだ。

 

ハバーマス『公共性の構造転換』〜プライベートの充実と客観性〜(6/15より)

経営学科 3年 17020155 菊地 哲美

 今、私の所属する集団では議論が活発化しないことが問題になっている。先日そのことが議題に上がると、皆に議論に貢献しようという意欲が足りないことが要因ではないか、という意見が挙がった。確かにそれもあるのかもしれない。しかし、意欲があったとしても、議論に貢献できるだけの意見や疑問がなければただ空回りするだけに終わってしまう。基本的に話をするだけのネタがない、というのが一番の原因なのではないだろうか。

 私の友人に一人、演劇の脚本を手掛けている人がいる。彼女は脚本を書く前に、必ずもとネタとして自分の思ったことや感じたこと、日常の小さな出来事などを書きとめたメモを引っ張り出してくる。それはいつも手帳に入っているようで、普段からことあるごとに何かを書き付けていた。彼女がいうには、何となく思ったことや考えたことは、そのまま放置しておくと、自分でもしっかりと認識できないらしい。暗黙知の状態にあるものを、一度言葉にするなり、文字にするなりして形式知化することで、自分の感情や思考を自分自身で確認するという。普段からそれを続けていると、いざ脚本を書こうという場面になった時、自分が何に興味があり、何を思って生活しているのかをすぐに思い返すことが出来るので、ネタを練りやすいのだそうだ。脚本は基本的にフィクションなのであるが、「自分の中にないものは書けない。」というのが彼女の基本的な考え方である。そういう意味では、彼女のメモ帳は「自分の小日記帳」であると同時に「ネタ帳」であるともいえる。実際、脚本を書く前にはそれを引っ張り出してきて、いつも私に一通り見せてくれる。そうすることで、ある程度ものごとを客観視した脚本に仕上がるそうだ。自分の頭に一瞬でも浮かんだことは、書き留めておかなければ忘れる可能性があるし、思ったまま放置しておくと、むしろ自分の考え方に対して冷静な見方が出来なくなるという。

 その話を聞いたとき、私の中では納得できる部分が多くあった。少なくとも、私の目から見た彼女の意見は、大抵客観的であまり偏ったことは言わない。しかし、良くも悪くも主張がはっきりしているので、意見を求められればしっかりと答えてくる。それは別に、感情的になることがないのではなく、一度沸き起こった感情を、あとから自問自答しているだけなのだという。そして、一度文字にして残しておくことで、自分の思考を自覚することが出来るため、常に明確な主張を持ち合わせていることが出来るそうだ。私も一時期それをまねてみたことがあるが、確かに自分の中では曖昧なままであった考えを、ある程度はまとめることが出来た。例えば、論文のテーマをさがすときにしても、頭の中でぐるぐると考え続けているよりも、一度自分の思いつくままに樹形図などを書いてしまうと意外にまとまってくる。自分の中にあるものを、まるで新しい情報のように外から再びインプットし直すことが出来るからである。これをプライベートの充実と呼ぶのであれば、プライベートは「私的」といわれながらも、充実させることである意味での客観性に繋がっていくのかもしれない。

 はじめの話題に戻ってみる。この集団では、一つのテーマに対して自分は何をどう思ったのか、ということを思いっ放しにしているのが問題の一つなのかもしれない。もちろん、レジュメ等で話題や意見をまとめてくることは義務付けられているのだが、内容のまとめと自分の感じたことのまとめでは、話が大分違ってくるだろう。義務感や強迫観念にかられて、はじめから「議論すべき点」を必死にさがすよりも、まず何をどう感じたのかを簡単な言葉で書きとめる、という単純で原始的な作業から始めてみるべきなのかもしれない。こういってしまうと、どこか幼稚なイメージが抜けきらないのだが、一度自分の感情を自覚して、それから「なぜそう思ったのか」という思考プロセスを見つめ直してみることは必要であると思う。そうすることで、逆に疑問点が浮かんできたりはしないだろうか。

私たちは、書けることよりも多くのことを話せるし、話せることよりも多くのことを知っているといわれる。おそらく、自分の考えを書き出してみたところで、書いた以上にずっと多くのことを考えて、その意見にたどり着いているはずである。それを書き出しながらひも解いていけば、自分の中にある暗黙知的な部分を「形」として自覚することが出来るのではないだろうか。たった一人がそれをやっても議論自体への影響は小さいだろう。しかし、全員が個人として自分の考え方をしっかりとした「形」にする方法を模索することが、逆にディスカッションのような公共的な場を盛り上げていくことに繋がるという考え方もありそうである。ずっと議論の場でのやり方や問題点にばかり目がいってしまっていたが、本質的な問題点はもっと内面の部分にあったのかもしれない。身近なところから、プライベートとパブリックの関係性を少し垣間見たように思う。

 

ジャン・ボードリヤール『消費社会の神話と構造』(6/22より)

経営学科 3年 17020155 菊地 哲美

 自分らしさを求めることは非常に難しい。そもそも、自分を形作っているものというのは、自分を取り囲む社会的環境さえも含む。人間の意思決定はおそらく、少なからず環境から与えられる情報や刺激に影響されているであろう。差異ある消費によって個性を主張しようとするものの、それすらも本質的には与えられたコードに乗った行動に過ぎないのではないか、というボードリヤールの主張は、現代(未来)の大衆消費社会の姿をよくとらえている。何かを消費するとき、今ある社会において、私たちは選択の必要性を感じているがゆえに選択する。そして、その選択の主な部分は、既に「使用価値」や「機能」によらなくなってきている。しかし、それは決して能動的でクリエイティブな行動であるとは限らない。たとえ弱者ではなかったとしても、私たちはむしろ物の溢れる社会で製作者に踊らされるように消費行動を行っている。それは随分と受動的な消費なのではないだろうか。

 わたしたちは何故そうまでして「意味」を消費することにこだわるのであろう。そこには、経済社会や消費構造から始まった人々の心理が絡んでいるように思う。大衆消費社会は、もちろん個人差や例外はあれど、人々の生活水準をぐっと引き上げる効果を持った。それは新たな階級や差別を作り出していった部分もあるが、一般には社会の成長とみなすいことができるだろう。しかし、そこで私たちは今度は自分である必要性を失い始めたようにも思う。同質・同レベルのものが多くの人たちの手に平均的に行き渡るようになることは非常に望ましい。新たな社会的問題を多く生み出してしまった面もあるが、基本的にはそう受け止めている。そうではあるが、反面、個人を見分ける方法がなくなってきてしまう部分もあるのではないだろうか。ある商品を消費するのが、自分である必要はなくなってきているように感じることはないだろうか。「消費」に対して「個性」的な意味を求める行為は、そんな人々の空虚な心から発生している部分もあるように思う。それは、同時に個性を求めるだけの余裕や機械があらゆる人々に与えられ始めた、とみることも出来るかもしれない。しかし、物理的に差異を与えられることが減った分だけ、自分の力で差異を求めなければならなくなったのも事実であろう。そのため、「意味」を消費することで「自分」を創り、また創ったつもりになることが多く求められるようになってきたのではないだろうか。

 携帯電話や衣服など、最近では特に「選ぶ」際に個性を発揮できるようなものが増えたように見えるが、ひとつ逆戻りをしているものもあるように思う。「ユニクロ」である。安価で、あらゆる人が手に入れやすく、更に気がつけばどこもかしこもユニクロユーザーだった、というケースも意外と少なくない。これはよく考えると、フォードが出てきた頃の自動車のような存在にも思える。ユニクロユーザーが、少しずつユニクロから離れていくようになるのも、周りと同じ色に染め上げられていることに気がついた消費者達が、反動で個性を求めるようになるからかもしれない。

しかし、結局のところ、そのシンボリックな消費も残念ながら、生産者の作り出すコードに載せられているだけである、といえる部分がある。少し怖いのは、シンボリックな消費をしている「つもり」の、本質的には受動的な消費感覚がこのまま拡大することである。クリエイティブなつもりの、その実表に出ない部分では受動的な消費者が気付かないうちに増えていけば、活発に動いているようで、実際に蓋を開けてみるとその逆である、とい

う覆面的な社会が形成されたりしないだろうか。私はそれが少し不安である。

 

 

<エロス的文明と美について>

経営学科3年 17020036 藤本沙耶香

 エロスと言う意味に関して今回の講義では性的なイメージというよりも、生の衝動という日本語の訳が躍動感のようなものを感じて興味深く感じた。今回の講義で特に考えることができた点としては、エロス的文明がたとえ発展しても野蛮にはならないということと、芸術による開放と言うことで美ということに関して考えさせられた。

 エロス的文明の発展が野蛮状態をもたらさないと言うことに関しての私自身考える理由としては、一つとして自由な風潮の時代になったらまた、自由すぎる風潮が不安のもととなってそれを是正しようとする動きが強まってまた社会は放任ではない社会に戻るような気がする、ということが挙げられる。もう一つとしてはそのようなことを裏付けるのに、良い例なのかもしれないけれど、必ず保守的な人がいてそのような風潮に乗る人ばかりではない、と言うことがあげられると思う。それは必ずしもエロス的文化の極みまで達した例ではないかもしれないけれど、人間の社会は堕落する傾向はあっても完全な野蛮な状態に戻るということはないのではないか、と考えた。

 もう一つ考えさせられた点としては芸術で、私はあまり美について語ったり、評価するほうがなんとなく美の価値のようなものが下がって(そもそもの美の価値がどれくらいあるのかは説明できないけれど)野暮ったい感じがしてしまうし、芸術家と言うのはきっと評価されようとして絵を書いているわけではないと思うから、これらの美、と言うことを考えることは大変難しいことだ、と感じた。時に絵を書くことのできる犬やサルなどが出てくるけれど、美的感覚を持って絵を描いたり、音楽を作り出したりできるのは人間に特有の力のような気がするのできっと、美的感覚というものは何か高い能力で、価値も高く、高いレベルにあることなのだろうと私は思う。

そのように美について考えるとき、前に見た「本当のジャクリーヌデュプレ」や、「シャイン」と言う映画を思い出した。「本当のジャクリーヌデュプレ」では姉妹の関係というものが中心的で印象的だった。よりいっそう私が好きで、印象的だったのは「シャイン」という映画の方なのだけれど、その映画はオーストリア出身の実在の天才ピアニストであるデヴィッドヘルフゴッドをモデルに描かれた映画だった。私はピアノを弾くことが趣味で、映画好きに加えてピアノが題材であったので、最初はラフマニノフの協奏曲とはどんな感じなのだろうという軽い気持ちでしかその映画を見ていなかった。けれども、複雑で色々考えることのできる面白い映画だったように思う。私にはデヴィッドの父の独りよがりのようにしか見えなかったのだけれど、父のピアノや息子に対する強すぎる愛や、デヴィッドは神経を病んでしまうのだけれど、精神病院を出た後、良い人々やパートナーに恵まれてまた、バーでの演奏を開始したり、リサイタルを開いたりするようになるまでの道のりなどとても複雑で面白い映画であったと思う。私がこの映画を見て感じたことは、デヴィッドがリストのようにラフマニノフを弾く、といったようなことに固執していた頃には芸術という感じだけで、美という感じあまりしなかった。けれども、パートナーに恵まれて、本人はどう理解したかはわからないけれど、お父さんと会った後あたりからは、充実していて満ち足りているような生活になってからの方が、美というものが前面に表れてきたような気がした。このようなことから美というものは意識するとなんだか無くなってしまうというか、なんと表現していいのかわからないけれど、今回の美的であることの機能、という部分や芸術の開放といったものから美についても考えさせられた。

 

<共産主義に対して> 

経営学科317020036 藤本沙耶香

 今回の講義を通してもマルクスの考えている共産主義というもので賛成できる感じた点はやはり分業の廃止だ。機械でできることをわざわざ人間がする必要もないし、分業自体はその人だけしかできないようなものでもないかもしれないからだ。それに労働者が生産の力と範囲が増大するほどますます貧しくなると言う言葉もその通りのように感じた。その当時の労働者階級の劣悪な生活環境というものはよく世界史などでも習うことができたけれど、働けば働くほど、働かされて貧しくなる、と言うその言葉がぴったりだ。けれども、マルクスの考える共産主義の段階というものにはなかなか納得できないようにと感じた点がいくつかあったような気がする。マルクスの共産主義の考え方の中には宗教的で、精神的な思想と経済や市民の生活という現実的なものとを結び付けようというものや、全く両極端のように思われるものが入り混じっていたものなどがあり、私には理解しがたいように感じた。

宗教的、または精神的な問題のように感じられたものの一つとしては、マルクスの言っていた民族、人種、を越えた類的存在と言うものである。講義でもあったようにやはり人類の中の一人として自分を意識するのは何となく宗教的な要素が強いように感じた。今のように国際的な時代であっても民族などを超えた人類という発想を持つのは難しいことであるので、マルクスが生きていた当時であればなおのこと神という存在を抜きに考えては、類的存在と言う見方はできなかったのではないか、と感じた。神と人類とを対比させて考えれば、類的存在と言う考え方もすんなりいくように思われた。

 

 

6月15日(火)ハーバーマス「公共性の構造転換」

17020028 経営学科3年 伝法谷 美雪

今回の講義は、公共性の発達の歴史や、公共性と私的空間、国ごとに異なる公共性の受け止め方、そして、日本における公共性の意味合いなど、普段あらためて考えることの少ない「公共性とは何か」について考えるとても良い機会だった。歴史的にみると公共性がギリシアの公共性に始まり、中世の公共性、貴族的社交界の公共性、ブルジョア的公共性と進み、そして「公衆」が成立するというように、公共性が歴史の流れとともに段階を踏んで発展してきたことが理解できた。同時に、公共という場が昔から人間の生活にとって身近でかつ重要な存在であり、社会の発展に不可欠だったことを認識させられた。

講義中の、手紙・日記を公共的な空間で公表するという議論に関しては、私的生活を脅かすおそれもあるので一定の配慮が必要とは思われるが、手紙や日記などの私的・内面的なものに主体性を持たせ、公共の場に公表することにより権力・権威に対抗でき、政治的にも成熟していくという面を考えれば、やはり公共の場を活用することが、民主主義のもとで個々人が自分らしく生きていくためにも必要だと思った。

欧米などでは、@多少エゴイスティックになっても、自己をきちんと確立し、A公共の場で討論する際にはこれを抑制する術を磨く、ということが個々人にとっても望ましく、社会を発展させることにもつながるとされているが、日本においてはこの両方ともなされていないので、これらを鍛えるべきか、という講義中の議論については、私としては、以下の理由で賛成であり、ぜひとも鍛えるべきだと思う。

まず、現代の日本人は、あまりにも自分自身の考えを持とうとせず、周囲の多数派に影響され過ぎている人が多いように感じる。多数派と同じ行動をとるのがとりあえず安全というのは、おそらく、生物としての本能的な行動であろう、とは思うものの、多くの人々が自分の頭で考えることをさぼり、周囲の多数派の流れに身を任せ過ぎてしまっていては、半ば人間であることを放棄しているようなものであり、いつか、すでに絶滅してしまった生物と同じ運命をたどらないとも限らないと思われる。

また、以前は、ランキングと言えばヒットソングくらいだったのが、最近は、映画やディスカウントショップ、テレビショッピングなどでも、ランキングが大流行りである。今売れている商品を買い求め、今年流行しそうなモノに飛びつく、という心理は、人間の本能的な行動を見透かしたコマーシャリズムの商品戦略にのせられている面が大きく、ある考えや選択を自分の考え、判断と思っていても、ハーバーマスに言わせれば、実は、単に受け身的に消費させられているにすぎないことがわかった。

自分なりの考えを持つためには、知識、教養、判断力などが必要で、日頃の勉強が大事であり、相当の努力が求められることになるが、自分の頭で考えることが自己確立の基本であり、自己の確立なしには真の民主主義もあり得ないと思う。私は、日本では、沈黙が美徳とされてきた歴史があり、相手のことを思いやり、争いを好まないという国民性は、これからも大事にしていく必要があるが、グローバルな社会となった現在では、主張すべきことをきちんと相手が理解できるように言えるということが、さらに大切だと考える。

自分も含めて日本の若者たちは、これまで日本人が築き上げてきた相手を思いやり人間関係を大切にするという精神や伝統を守りつつ、私的空間を充実させていくことで、内面性を発達させ、自己を確立し、公的な場で自己を鍛え、社会の健全な発展に貢献していくべきだと思う。そして、私的空間と公的空間の両方を充実させ、かつ両者が互いを侵害せずバランスのとれた関係を保てるような社会のあり方を示し、理想的な世界の創造に貢献できるといいと思う。

 

 

経済学部 経営学科4年 17010127 竹本 亮太

 幸福の神義論における苦行に対する評価「神に憎まれていることの徴候または隠れた罪過の印とする」という一文について、もし普段の生活の中の何気ない苦難が神に憎まれている証拠であるとするならば、その苦難に耐えること、もしくはその苦難をなんらかの方法で乗り越えることは神の怒りを治めることを意味することになるのだろうか。苦難自体が神の人間に対する憎しみであることは表記されているが、それに対し人間はどのように行動すべきなのかが記されていないことに少々疑問を感じた。しかしこの一文は苦行が人間に対する憎しみであるという定義付けを目的としたものであり、人間を理想的な行動に導くことは本来の目的から外れているのかもしれない。苦行が起こったときには神の怒りに触れている状態にあるため、生活を改めよ、という意味を文の背景から読み取ることも一つの狙いとなっているのかもしれない。

 これとは逆に苦行を超人間的な力を獲得するための通路であると捉える苦難の神義論は全く考え方が違い、その考え方のギャップの大きさに驚いた。まさにプラスとマイナスと言っていいほど正反対の捉え方だろう。この二つでは考え方によって人間の行動に大きな違いが生まれ、またその結果生み出されるもの・得るものにも違いは出てくるのではないだろうか。超人間であるという点を置いて考えたならば、この考えは現代に当てはまる考え方である。なぜなら努力に努力を重ね、苦行を経て、その結果何か大きな成功を掴むことができるというように考え直せば、この考え方は正論を述べていると言えるだろう。得るものを超人間的な力と捉えてもなんら問題はないかもしれない。この苦難の神義論において感じた疑問は、個人的苦行を、社会的な「救い」の制度(Anstalt)化によって解決しようとする、の一文で、社会的な救いの制度化というのは具体的には何の表しているのかということだ。社会的な何かの制度が大勢の人間が個人的に持つ苦行から開放されることを可能にする。こう聞いただけでは何のことであるかさっぱりわからないだけでなく、そんなことができるのだろうかと疑問に思ってしまう。具体的にどのような制度なのか、そしてどのような過程で様々ある個人的苦行を解決していくのか、詳しく知る機会を得たいと思う。もしかすると一様に同じ救いを大勢の人間に与えるわけではなく、個人個人の苦行に沿った救いを得ることができるのかもしれない。そしてその救いを受け入れることで超人間的な力を獲得することができるのだろうか。

 様々な宗教によって考え方は違い、様々な人間によって考え方は違う。当然、苦行とは自分にとって何であるかと問われれば、それは十人十色に回答が返ってくるのではないだろうか。苦行が自分にとってどのような意味があり、またその苦行を乗り越えたときに自分はどのような変化を遂げているのか、それを考えれば自ずと自分にとっての苦行の位置付けは見えてくるように思う。